昨日の記事に続いて、83歳の現役美容研究家、小林照子さんの講演会のお話の続きを綴ってみたいと思います。(今回の講演会は、新著「これはしない、あれはする」の出版記念の講演会だったので、先生の経験から、した方が良いことと、するべきでないこと、についても紹介され、トップの写真はその抜粋です。)
2人の母親と3人の父親に育てられるという複雑な家庭環境のもとで、極貧の子供時代を過ごした照子先生は、どうやって疎開先の山形から上京できたのでしょうか。
普通ではありえないような大きな出来事を何度も人生の転機としてきた照子先生は、自分の人生に起こる出来事は、偶然ではなく、必然であると語ります。それは、良いことも良くないことも。
3人目の母親を病気で亡くして間もない照子先生のところを訪れたのは、近所のお寺のお坊さん夫婦。その奥さんは、同じ頃に、病死された照子さんの母親と同じく骨盤カリタスという病気で苦しんでいました。裕福なお寺の住職の奥さんだったので、照子さんの義母とは違って、病院で適切な治療を受けて闘病生活を続けていたようです。同じ町にいた唯一の同じ病気を患っていた照子先生の義母が亡くなってしまったので、照子さんは、献花に訪れて来てくれたのかと思ったそうですが、なんと、突然高額なお金が入った封筒を手渡されたそうです。
学校で、照子さんが作業中に外して机の上に置いておいた腕時計をその住職の息子が盗んで、川に投げ捨ててしまったことがあるというので、そのお詫びにやって来たようで、他人からもらったか拾った腕時計で、その行方をそこまで気にしていなかった照子先生は、あまりに高額なお金を手渡されて大変驚いたそうです(時計を持っていってしまったのが、その住職の息子さんだったことも、その時に知ったそうです。)。小さな町のお寺なので、近所の人たちに息子の良くない行いが広まってお寺の評判が下がってしまうことを恐れた住職さん夫婦は、口止め料として持ってきたお金だったので、照子さんが何度断っても後に引くことはなく、照子先生は、突然、驚くほどの大金を手にすることになったのです。
そして、今まで迷惑をかけたから、東京へ戻って好きなことをやりなさい、と義父が背中を押してくれたこともあって、照子先生は思いがけず、東京へと戻ってきました。保険の外交員をしながら美容学校で学ぶ日々。メイクアップの仕事に就きたいと思い、たまたま応募したのが、その後、独立するために56歳で退職するまで35年以上に渡って勤めることとなったコーセーでした。そんなに高倍率とも知らず、受験会場に足を運び、ひるんでしまったと言いますが、そのとき、小学校の先生に昔言われたある言葉を思い出したそうです。それは、自分に自信を持つこと。
照子先生は、小さい時、いつも自分に自信がなさげで、そんなことが周りからも見てとれて、先生に発破をかけられたそうですが、この人生の大一番という場面で、その言葉を思い出し、実践したことで、人生のV字回復の最初のきっかけを作ることができたので、私たち講演会の参加者たちにも、自分に自信を持つことの重要性を説かれていました。
仕事でも頭角を現し、1ヶ月もの出張に行くことになった照子先生ですが、ある事件に巻き込まれ、会社へ2年間もお金を返済しなければならなくなってしまったそうです。なんと、出張に向かう新幹線の中で、たまたま向かいに座っていた同じ会社の販売員の女性に、出張手当として会社から支給されていた大金を盗まれてしまうのです。しかし、照子先生は、ある事情から、その女性が犯人であることを大事にすることはなかったため、結局、個人の不注意ということで、自分が返済することになってしまいました。 (続)