ニューヨーク在住歴が長い日本人で知らない人はいないほどに有名な和食レストラン、レストラン日本は、今年の8月に62周年を迎えました。
今でこそ、SUSHIブームがアメリカを席巻し、家賃や人件費が高騰したマンハッタンでは、高級お寿司屋さんは、本家本元の日本人ではなく、財力があるアメリカ人や中国人が経営するお店ばかりです。また、和食はヘルシーな食事の代名詞ともなり、カジュアルなレストランから高級店まで、様々なスタイルのレストランがひしめきあっています。
しかし、レストラン日本がオープンした1963年は、ニューヨークに本格和食レストランが全くなかった時代。そんなニューヨークで、日本でも飲食業の経験がない倉岡伸欣さんが開いたのがレストラン日本でした。
レストラン日本の魅力がよく分かる動画(2025年撮影)
「ニューヨークでレストランビジネスを長くやっていこうとするなら、オーセンティシティー(本物志向)、ファイン・クオリティー(品質)、リーズナブル・プライスが大切」と、1963年にニューヨーク・タイムズの料理評論家、クレイグ・クレボーン氏がくれたアドバイスを守り続けながら、ニューヨークで初めて総檜造りの寿司バーカウンターを作ったり、アメリカ政府機関と5年近くにおよぶ交渉の末、1989年に日本からふぐを輸入するアメリカで唯一の権利を獲得、カナダの自社農園でのそばの実栽培をしたりと、数々の先駆的な取り組みで、アメリカでの和食文化を常にリードしてきた倉岡さん。

倉岡社長の奥さん、瑛子さんは、元女優。八潮悠子という名前で活躍していました。倉岡社長がテレビで見て一目ぼれしたことがきっかけで、共通の知人を探した末に結婚までいたったというのは有名なエピソード。瑛子さんの妹であるレストラン日本の現オーナーは、「結婚然り、ノブちゃんはこれと決めたことは必ず実現する人だった」と、オフィスに飾ってある倉岡社長の遺影を見てよく懐かしそうにお話されています
日米の食の架け橋としての役割を果たしてきたレストラン日本には、数えられないほどのエピソードがあります。畳の座敷では、マイケルジャクソンがSakura Sakuraを熱唱し、国連総会の時には歴代の日本の首相が訪れ、元NY市長のブルームバーグさんは毎年お誕生日にすき焼きパーティーを開いてきました。
そんなレストラン日本で社会人人生のほぼすべてを過ごし、パンデミック明けに総支配人を退職して日本へ本帰国した馬越さんは、今年、自身のレストラン日本での軌跡を振り返りながら故倉岡社長とのエピソードをまとめた本、「虎フグとマラソンのニューヨーク喰い物語」を出版されました。

馬越さんは、著名なマラソンランナーとしても知られ、なんと今年39回目のNYマラソン完走を果たしました。その功績は、NYタイムズに紹介されたこともあるほど。また、イラストも得意で、ご著書の表紙はなんとご自身で描かれたとか!
倉岡社長の右腕としてあちこちに足を運び、レストラン日本の数々の歴史的瞬間を間近で見てきた馬越さんが綴ったストーリーからは、倉岡社長の偉業を知ることができるだけでなく、「レストラン」という枠を超えて日米の食文化の架け橋としての役割を果たしてきたレストラン日本を通じて見えるニューヨークでの和食の歴史を伺うことができます。
不思議なご縁が重なってレストラン日本とのお仕事の機会をいただいて以来、この伝統を繋ぐために地道な業務を続けてきましたが、今月3日に馬越さんの出版祝いをとの発案から、62周年の感謝イベントを開催しました。
私の突然の思い付きに現経営陣が賛同してくれて、そして何より馬越さんが様々な形で多大なる協力をしてくれて、イベントでは100人ものゲストをお迎えすることができました。

馬越さんの挨拶の時には、レストラン日本の長年の常連さんである、日本を代表するジャズピアニストの秋吉敏子さんと旦那様のルータバキンさんも、駆け付けてくれました。奇しくもこの日はお二人の結婚記念日で、そのお祝いもできました
イベント準備から当日にいたるまで、社員だけでなく、「レストラン日本」のためにと、テレビ局、現地の新聞社、故倉岡社長夫婦や馬越さん、現オーナーと繋がりのある方々からの温かいサポートを受け、改めて故倉岡社長夫婦、そしてそのたすきをつないできた現オーナー、馬越さんの人徳を感じる機会ともなりました。

当日は、氷の彫刻制作で著名な岡本慎太郎さんのスタジオから、こんなに見事なサプライズギフトをいただき、ゲストたちの写真撮影スポットとなりました。氷の左の写真は、マイケルジャクソンと倉岡ご夫妻
和食が海外で広まっていくのは嬉しい反面、昨今のニューヨークでは、JapaneseやSUSHIという言葉が独り歩きして、そうしたお店を出せば儲かるだろうという皮算用をする日本以外の国の人々が多いことも事実です。今回のイベントを通じて、「本物」の和食をもっと多くの方々に知っていただくためにも、故倉岡社長夫婦の想いをしっかり繋いで、日本人が経営する日本食レストランとしての確かな歩みを続けていきたいと思いました。