数ヶ月前にネットフリックスで公開されたドキュメンタリー、"Bad Vegan"は、公開直後に全米で大きな話題となりました。
日本のネットフリックスでも同名、「バッドヴィーガン」で公開されています。
Netflixより。
既に番組をご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、この番組を楽しむための予備知識、そして、私がこの番組を見て感じたことをまとめてみたいと思います(ネタバレになりますので、これから見たい方は、この記事は見終わってからご覧ください)。
主人公はSarma Melngailis。NYで一世を風靡したローフードレストラン、Pure Food and Wineのオーナーだった女性です。
このレストランは、マンハッタンの中でもこじんまりとしつつも独特の風格を持ち、有名人も住んでいることで知られるグラマシー地区に2004年にオープンしました。私が渡米した2009年にこちらへ持ってきた日本のガイドブックでも、トップページで、写真と共に大きく紹介されていたのを今でもはっきり覚えています。
時代はSex and the Cityが人気だった頃。ドラマの中で、登場人物たちがローフード(一定の温度以下でのみ調理した食事)を食べに行く場面を覚えている人もいるかもしれませんが、健康的な食生活への注目が集まり始めていた時代です。そして、ローフードの先駆けとしてオープンしたのが、このPure Food and Wineだったのです。
学生として渡米した私には敷居が高すぎるレストラン。でも、たまたま渡米から1ヶ月半後に日本の友達が遊びに来て、このレストランに行きたいとご指名があったので、思いがけず行く機会に恵まれました。おしゃれな中庭の席に案内されたのですが、なんと近くのテーブルにはモデルさんのように美しいサルマさんが。オーナー本人があまりに普通にお店にいて感激したのですが、まさか、これがこのレストランの最初で最後の思い出になるとは思いもしませんでした。
当時の彼氏であり、共同経営者だったマシューと。マシューはレストランのカリスマヘッドシェフでした。サルマの腕には、レストラン併設のテイクアウト専門店、One Lucky Duckのロゴであるアヒルのマークが。 (c) Paul Hawthorne/Getty Images
盛り付けにもこだわったおしゃれな料理。いずれもyelpより。
こちらが中庭席。yelpより。
私が行った2009年はレストランが絶好調だった頃。その後、サルマさんは共同経営していたヘッドシェフであり当時のボーイフレンドと経営をめぐるお金の使い方で揉めて、投資家がサルマさんを支持したことから、ヘッドシェフはレストランを去ることに。その後、サルマさんは変な男(アンソニー)に狙われ、彼の支配下に置かれてしまうのです。これを人は「洗脳」と呼ぶのでしょう。アンソニーと付き合うことになったサルマさん(後に二人は結婚し、その後離婚)は、アンソニーに言われるがままにお店の売上金を彼に送金してしまったり、携帯電話も勝手に見られていたり、アイビーリーグを卒業した後に世界的な投資銀行で働いていたような頭の良い方がとるとは思えない行動に出てしまうのです。アンソニーは、サルマさんの孤独につけこんだのでしょうか。自分の言う通りにすれば、サルマさんが溺愛している愛犬は不死身となるとまでふれこみ、彼女にどんどんお金をせがんでいくのです。美人でビジネスでも成功していて彼女のファンも多かったことでしょうが、成功者ゆえの孤独が彼女を狂わせてしまったのでしょうか。
最終的にレストランは、アンソニーに渡った多額のお金により従業員への給与滞納というありえない事態に直面してしまいます。2015年にはお店の外で従業員が給与支払いを求めてデモまで行う事態に発展。そして、同年にレストランは完全にそのドアを閉じることになりました。
投資家からの2Mドル(およそ27億円)ものお金を不正使用したとしてサルマと当時の旦那のアンソニーは指名手配されることになり、二人は偽名を使って車で逃亡します。アンソニーが運転する車でその日ぐらしの生活。ギャンブルにはまっていたアンソニーに付き合い、全米の多くのカジノを訪れたと言います。そして、Pure Food and Wineと同時に経営していたテイクアウト専門店、One Lucky Duckのお店のロゴであるアヒルの刺青を左腕に入れていたサルマは、身元がバレないようにと絆創膏で腕を隠して偽名での逃亡生活。
最終的に、テネシー州の寂れた町のモーテルで、アンソニーが間違えて?本名でドミノピザのデリバリーを注文したことで逮捕に至りました。完全ヴィーガンのレストランを経営していたサルマなのに、逮捕のきっかけがヴィーガンとはほど遠いピザだったのはなんとも皮肉です。
逮捕された時の二人。別人のように変わり果ててしまったサルマに驚いた人も多いです。(c) CBS New York/You Tube
その後、それぞれ刑務所生活。サルマはNYのライカース島(極刑の囚人が多く入ることで知られる刑務所があることで知られる島。ライカースと聞けば誰もが刑務所を思い浮かべるような島)の刑務所で3ヶ月の刑期を終えました。
このドキュメンタリーでは、当時のレストランのマネージャーやスタッフ、さらにはサルマの才能を信頼していたレストランの投資家など、レストランの多くの関係者が当時を回顧しています。
Pure Food and Wineのイメージが強すぎるからでしょうか。2015年の閉店以降、誰も入居者がいず、当時のまま残された外観。
なんというジェットコースター人生でしょう。サルマは現在、ハーレムで、アンソニーに洗脳されていた時から飼っている彼女の唯一の理解者、愛犬と静かに暮らしています。現在は、当時の回顧録の執筆中と言いますが、インスタグラムからは、オンラインで買った古着を着て、サラダ中心の極めて質素な生活がうかがえます。
投資銀行の激務に疲れてその世界を離れ、食への興味からNYの有名な料理学校へ行ったサルマ。そのご縁で、レストランを一緒にオープンすることになった凄腕シェフと知り合い、彼と付き合い始めたことで、一世を風靡したレストランを作り上げました。そんな彼女はなぜ、全く容姿も魅力的でなく何のバックグラウンドもないただの詐欺師に騙されてしまったのか、いまだに腑に落ちません。そんな彼女の思考回路が気になって、先日は、4時間にも及ぶポッドキャストのインタビューも聞いてみましたが、真意は謎に包まれたままです。
サルマは今も負っている当時の多額の負債を返済するために暮らしていると言いますが、この一連の出来事をどのように見ているのでしょうか。ドキュメンタリーやインタビューから悪い人にも判断力に乏しい人にも見えないのですが、全ての不可思議な行動は、洗脳だけで長い間理性を失ったことからによるものであるのかもしれませんが、悪意があったのかどうかは、サルマ本人しか分かりません。
現在のサルマ。本人のインスタグラムより。
サルマもインタビューで話していましたが、世界一とも言われるほど競争の激しいNYでレストランを長きにわたって経営することは、想像以上に難しいことです。紆余曲折あったとは言え、セレブも通うようなレストランを一代で築きあげたのは、ものすごい快挙です。華やかなビジネスシーンからの思わぬ転落人生。ニューヨークのファンにとって、このネットフリックスのドキュメンタリーは、一時代のニューヨークを知る上でも貴重な作品です。