金融不況の傷跡がまだ深く残っていたものの、ジュリアーニ市長が築き上げた安全な都市基盤の上に、ブルームバーグ市長が経済、文化的都市としてNYの発展を推し進めている時でした。
今でこそ、治安は格段に良くなり、世界中から仕事や観光でひっきりなしに訪問者が絶えないNYの街ですが、私には、私が「NYのに恋する」きっかけになった1999年の初めてのNY旅行の時に見た、まだ荒削り状態、それでいて活気あふれるNYの街並みが忘れられません。
その頃のガイドブックの地図には、今では普通に歩いているイーストビレッジの辺りが要注意地帯としてオレンジ色に塗られ、観光で来ていて慣れない地下鉄も、用心に用心を重ねて夜8時以降は乗らないようにと、滞在中はそれなりに注意をしていたので、不便もありました。
地図を片手に、慣れない街の散策だったので、地図なしで地下鉄も乗りこなしている今の状態とは明らかに街並みは違って見えたと思うので、単純に比較はできませんが、それでも今でも思うのは、あの当時のNYには、今にはない活気があったということ。
今は華やかなショッピングの中心地へと変貌し、有名店がこぞって軒をつらねて商業主義あふれるSOHOの街には、その当時は、小さなお店が立ち並ぶ狭間には、必ずといっていいほど画廊がありました。日本では、誰でも気軽に入って行けるような画廊はなかなかないので、このNYにという街では、日常生活の中に自然とアートが溶け込んでいて、そうした画廊がSOHOのように家賃も高いおしゃれなエリアにぽんぽんとあるのに、ある種のカルチャーショックを受けました。それも、残念ながら今は無き光景。
その後、SOHOの家賃はうなぎ上りに高騰し、家賃を払えなくなった芸術家たちは、SOHOの北西、チェルシーのエリアへと追われていきました。
チェルシーは芸術家たちが住む場所として定着し、チェルシーにアトリエ兼住居を構える芸術家たちも増えていったのです。
また、卓越した芸術センスを持つ人の中にはゲイの男性も多いことから、チェルシーはゲイの一大コミュニティーへとも発展していきました。
しかし、アーティストたちが求めた安住の地、チェルシーも長くは続きません。
おしゃれなカフェやレストラン、雑貨屋さんが立ち並び、今ではNYで一番住みたいエリアとして人気が高まったチェルシーで、家賃高騰の憂き目にあい、芸術家たちは、ついに川を渡り、マンハッタンの東側、ブルックリンの倉庫街へと進出しました。それが、今では日本のガイドブックでもおしゃれなエリアとして取り上げられるようになったウィリアムズバーグやダンボのエリアです。
倉庫は天井が高く、そして十分なスペースがあり、何より家賃も安め。そうした条件が揃い、チェルシーからウィリアムズバーグやダンボへと移っていったアーティストたちは、今ではその周辺のブルックリンのエリアにも進出しています。
私はアートには全く詳しくありませんが、こうしてNYの街の発展の歴史を紐解いていくと、そこにはNYの街で切磋琢磨し、夢を追いかける芸術家たちの姿があり、そうした土壌が、今でも世界中から成功を夢見てやってくるアーティストたちにとって魅力的な場所になっているに違いありません。
初めて訪れたNYの当時の街のことをもっと知りたいという思い、そして今私が見ているNYという街はどのようにして形成されてきたのかを探りたい、という思いは、こちらへ来てからずっと持っていました。
そして、先日、そんな私の想いに答えてくれるすばらしい本と出会いました。
「彫刻の投影」 下田治&下田幸知 諭創社
1950年代後半に渡米し、その後のアメリカ生活の大半をNYで過ごした今は亡き彫刻家、下田治さんの半生を描いた回顧録です。
この本は、下田治さんがお亡くなりになった後、芸術家の奥様、幸知さんが、旦那さんから聞いてきた話をまとめるという形で出版されました。
1960年代、1970年代、ドラッグが蔓延し、治安が悪く、移民以外は寄り付かなかったNYの街で、芸術家として奮闘する下田さんの人生を中心に、時代とともに変貌していくNYのアート界、そしてそれに伴う街の変化を追いながら、当時NYで暮らしていた日本人芸術家、草間弥生さんやノグチイサムさん、今年初めのアカデミー賞ドキュメンタリー部門に自身の半生を描いた映画がノミネートされた篠田有司男さんらとの交流が綴られた、NYという街で生きてきた芸術家たちの物語です。
当時のNYの街並みや生活状況も詳しく綴られていて、1999年以降のNYしか知らない私にとって、過去のNYを知る良い手がかりとなりました。
本の内容は、追ってご紹介していきたいと想います。