NYでドキドキの体験

83歳の美容研究家が語る人生論

一昨日、83歳の美容研究家、小林照子さんの講演会に行きました。(ブログトップの写真は、講演会の時のものです。50代にしか見えない美しさです!)

2日たった今でも、先生の美しさだけでなく、そのお人柄や考え方に大きな衝撃を受け、ずっと照子先生のことを考えています。それほどに、会場を埋めた100人の日本人女性たちの心を揺れ動かすお話でした。

美容研究家と聞いて、ここで記事を読むのをやめようと思った男性読者の方もいらっしゃるかもしれませんが、56歳で独立するために退社するまで、大手化粧品会社コーセーのヒット商品の開発を続けてきた方で、最後は女性初の役員にまで上りつめた方の人生論ですので、もしよろしければ、最後までお付き合いください。

講演会は、「私は6歳までの間に2人の母親と3人の父親に育てられました。」という照子先生の驚くべき言葉で幕を開けました。


照子先生の両親は彼女が3歳の時に離婚し、最初は実の母親に引き取られたのですが、父親に引き取られたお兄さんを慕って、照子先生は、1年ほどで父親のもとへと身を移し、父親の再婚相手が第二の母親になったそうです。しかし、照子先生がわずか6歳のときに父親が病気のため他界。色々な話し合いの末、子供がいなかった父親の再婚相手の兄夫婦にひきとられたそうです。

そして、時代は太平洋戦争真っ只中。戦争末期は、義理の母親とともに山形に疎開しましたが、東京で成功していた義理の父親のお店が東京大空襲で燃えて、一家は一文無しとなってしまい、義理の父親もやむなく山形へと移り、終戦後の生活が始まったそうです。

そんな大変な状況に拍車をかけたのが、義理の母親の病。
照子先生が10歳のときに、骨盤カリエスという病で寝たきりになってしまいました。病院に入院して適切な治療を受けるお金もなく、義理のお父さんは付きっきりで自宅での看病に追われ、仕事もできなかったそうです。そこで、小学生の時から一家の唯一の働き手になったのが、照子先生。
山形は自然豊かで農作物や野山のきのこや山菜にも恵まれていたので、学校から帰ると山にそうした旬の食材を取りに行ったり、農作業を手伝ってはお金をもらうということを繰り返していたそうです。
友達と遊ぶ間もないほど忙しかったという幼少から思春期。

8年間の闘病の末、照子先生が18歳のときに義理のお母さんは亡くなってしまいますが、お葬式を取り仕切ったのも照子先生。
なんとお母さんの火葬も自分で行ったそうです。もちろん、そんなことは初めての経験なので、色々調べながら、こんな感じでいいのかしら、と思いながら、骨を拾い集めて骨壷へと納めたそうです。

勉強も遊びもできずに終わった10代。お金もなくて、東京へ戻ることも考えられなかった18歳の時、驚くような出来事があり、照子先生は、終戦前に暮らしていた東京へと戻り、そして、高い倍率をくぐり抜けてコーセーへの入社を果たすことになりました。 (続)


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